Sweet sorrow  



それは微かな違和感だった。

それは本当に僅かなもので、“気のせいと言い切ってしまえばしまえるほどの物で。

根拠は?と尋ねられたら“カン”と答えるしか仕方ないほどの微妙な変化。

そして今のところ自分以外気付いてはいないだろう

でも、ひどく気になっていた。それに気付いた時からずっと・・・

 

ラリーを終えた後の休憩。ベンチに座る不二の傍に立って、それほどかいてもいない汗をタオルで拭っている手塚を不二はちらり、と見上げる。

「・・・何だ?」

それに目ざとく気付いた彼がいぶかしげな視線を不二に向ける。

「・・・別に。」

少し迷って不二はそう口にして、コートの方に視線を向けた。

 

コートは活気に満ち溢れている。

ひとつひとつの試合をくぐる事によって生まれる強い信頼感と団結力。

そしてそれが単なる“慣れあい”に終ることなく、個々の力を競い合う原動力にすらなっている。

試合に勝ちに行く、という表現がまさにぴたりと当てはまる、勢いのある部。

 

・・・自分達が入部をしたときとは見違えるようだ。

ふっと、不二は過去の事を思い出す。

“行こう・・・全国へ”

その瞳の強い光に圧倒され、自分にもうひとつの目標が生まれた時のことを。

 

手塚はゆっくりとそんなコートに向かって歩き出した。

その後ろ姿はこのテニス部をまとめる人間に相応しい貫禄と威厳に満ちている。

しかし、その背を見つめる不二の視線は再び翳りを帯びる・・・

「!」

・・・と、その視界を覆うかのように、ふわりと頭上から何かが舞い降り、不二の顔に影を作った。

「サボってちゃダメっすよ?」

「・・・越前。」

かぶせられた帽子のつばをぐっと上げ、背後を振り返ると、いつの間に来たのかすぐ傍にその持ち主が立っている。

「なかなか似合いますよ、それ?」

「そう?」

少しくせのある黒髪を風に遊ばせ、覗き込むように自分を見るリョーマに不二はちょっと笑う。

「どう?調子は?」

「まあまあっす。」

ラケットでとんとんと肩を叩きながらさらり、とそう言うリョーマに不二は目を細める。

「気合い充分、ってとこかな?」

「不二先輩こそ、どうなんすか?」

「まあまあ、だよ。」

にこやかにこちらもそう返しておいて、不二はリョーマを見る。

「君には負けるかも、だけどね。」

「・・・思ってもいない事言うもんじゃないっすよ。」

「あはは。」

自分の切り返しに声を上げて笑う不二をちょっと眩しそうに見るリョーマ。

「・・・先輩。」

「何?」

「今日、コート裏集合ね。」

唐突なリョーマの言葉に小首を傾げる不二。

「オレ、今日、コート掃除しなくちゃならないんす。」

リョーマのその言葉に不二はちょっと目を見張り、くすり、と笑う。

「・・・それで?」

いささか意地悪と思わないでもなかったが、人を誘うのにあんまりにも愛想がない彼の態度に、わざと気付かない振りをして不二は尋ねる。

「・・・コート裏、ね。」

しかし、困ったような、拗ねたような目でじっと見る彼の瞳に不二は早々と白旗を上げる。

「なるべく早く迎えに来てください、王子様?」

そう言っておいてコートを顎でしゃくる。

「練習時間が長引くと、帰りも遅くなるよ?」

見ると手塚が険しい表情をしてこちらを見ている。

「校庭10周のクチになりそうだよ?」

「やべ。」

「あ、越前!」

肩をすくめ、コートに向かって歩き出しかけたリョーマを不二が呼び止める。

「?」

「忘れ物。」

不二はかぶっていた帽子を脱ぐとリョーマに投げた。

「サンキュ。」

投げられた帽子を器用に片手で受け止めると、気合を入れるかのようにそれを目深にかぶり直す。

「やっぱり君のほうが似合ってるね?」

「そうすか?」

リョーマはちょっと笑って、ラケットをひらひらと振る。

「じゃ、後で。」

 “やれやれ”

不二は苦笑しながら去っていく背中を見る。

生意気で、不器用なその小さな背中。

そんな背中を見ているうちに不覚にもほころんでしまう顔を、俯いてシューズの紐を直すことで隠して。

 

・・・立ち上がり、再びコートに向かう不二の視界の端に、大石と並ぶ手塚の姿が映った。

そのまま二言、三言会話を交わし、揃ってコートを出て行く二人に不二はさりげなく背を向ける。

まるでその事には気がつかない、という風に。

 

しかし、それが“ふり”だということは不二の唇から漏れた微かなため息が証明していた。

 

 

こうして一緒に帰るのは何度目くらいになるのだろうか?

 

学校からの帰り道、不二と肩を並べて歩きながら、リョーマはふっと思う。

家はお互い正反対の方角にあるので、一緒に帰るといってもせいぜいそれを分ける交差点までで、あまり長い距離ではない。

でも、“あの日”からできるだけこうして2人一緒に帰るのが日課のようになっていた。

 

帰る時に交わされる取り留めのない会話。自分はさして口数の多い方ではないのだが、不二といると、話をする、という楽しさがよく分かる気がする。

不二も自分の事をよく話す。とても嬉しそうに。そしてよく笑う、とても楽しそうに。

部では決して見ることのない顔がそこにはあって。そんな表情を見る度、少し嬉しくなる。

「今日はどうかしたの?」

今日の会話は不二から始まった。

「何が?」

「君が僕を誘うなんて、珍しい事もあると思って。」

不二がくすくすと笑う。

「いつもはそんな事ないじゃない?」

・・・確かにそうだった。リョーマと不二はいつもはっきり約束をして帰るわけではない。

いつもお互い待ったり待たされたり、でもそれで何となく帰っていたわけだから、今更、約束なんて、と思うのも当然のことで。

「別にいいっしょ?」

そんな不二の疑問にリョーマが肩をすくめてぼそりと言う。

「・・・今日は、一人にしたくなかったんだから。」

思わずそう口を滑らせ、ちょっと赤くなる。

先ほどの部活の時に垣間見た不二の顔。

何となく不二を視界に入れるくせがついてしまっているリョーマは、その不二の表情が気になった。

気遣わしげな、どことなく不安そうな、目。

そんな不二の顔は初めて見るもので、リョーマをはっとさせたのだ。

「・・・もう」

その言葉に少し絶句した後、不二がリョーマの頬を軽く指でつついた。

「あんまりドキドキさせないでくれる?こんなところで??」

「・・・ふうん、先輩でもドキドキする、なんてことあるんすか?」

そう言いつつも涼しい顔をして笑っている不二にリョーマはちょっと口を尖らせる。

「“動揺”なんて言葉、先輩には無縁でしょ?」

「・・・それは君もでしょ?」

不二が軽く微笑みながらリョーマを流し目で見る。

「君が“うろたえる”なんて少し見てみたい気がするけど?」

「・・・」

やはり口では敵わない。リョーマは軽く不二を睨むことで応酬する。

“でも、この人はどんな時にうろたえるんだろう?”

ふと、そんな事を考える。

・・・あまり想像がつかない。

考えてみると自分もそういう思いをしたことがない気がする。

驚いたり、戸惑ったり・・・そういう感情は誰かのおかげで最近、色々と経験してはいるが。

リョーマは横目で不二を見ながら密かにため息をつく。

 

“この感情は、なんていうんだろうか?”

 

・・・あの不安そうな不二の視線はまっすぐに手塚の背中に向いていた。

それを見た時、胸のどこかに何かが引っかかるような気持ちに捕らわれたのだ。

胸の奥が詰まったような、重たい気持ち。

何であんな目で手塚を見るのか、問いただしたくもあったが、黙っていた。

それを口にするのはあまりにも子供っぽい気がして。

でも、黙っているのと気になるというのは別の次元の話で。

「どうしたの?」

「・・・別に。」

いきなり黙り込んでしまった自分に小首を傾げる不二にリョーマは素っ気無く答える。

こんな気持ちを悟られたくなくて不二から目を離して泳がせた視線。

その先に思わぬ人影を捉えリョーマは小さく声を上げた。

「どうしたの?」

「あれ・・・」

「え?」

リョーマの見ている方角を見ると、通りを挟んで向かいの歩道に学生服連れの二人が歩いている。

「大石先輩と・・・部長?」

「・・・ホントだ。」

確かに青学の部長、副部長コンビである。なにやら真剣に話しながらこちらに向かって歩いている。

「あ」

と、大石が自分達に気付いたらしく、軽くこちらに手を振ってきた。

「不二に越前じゃないか。部は終わったのか?」

「うん。」

大石の問いかけに不二は頷いてさり気なく手塚を見ると、彼は黙ったままこちらを見ている。

「2人ともどこ行ってたっんすか?」

大石にリョーマが聞く。

「いつの間にか部活から消えてましたよね?2人して?」

「え、ああ、まあね。」

リョーマの問いに大石が曖昧に言葉を濁し、ちらり、と不二を見る。

「・・・僕達は、デートだよ。」

不意に不二が笑いながらリョーマの肩を引き寄せた。

「え?」

その言葉と不二の行動に、びっくりしたように2人を凝視する大石。

「ちょ・・・先輩!」

それはリョーマも同様で、いきなり不二に引き寄せられた事に焦ったような声を上げる。

「だから邪魔しないでね?」

そんなリョーマにお構いなくにっこりと笑いながら続ける不二を、大石はただぽかん、として見ている。手塚は、といえばそんな大石とは対照的にさしたる表情もなく、2人を見ている。

「じゃ、そういう事で。」

不二は開いた手をひらひらと振って見せ、ちらり、とそんな手塚を見る。

目が合った途端、その視線をさりげなく外した手塚に、それとはわからぬほどではあるが不二の眉が寄った。

「また明日ね。」

「あ、ああ。」

自分のかけた言葉にのまれたように手を振り返す大石を視界の端に残し、不二はそのままゆっくりと歩き出す・・・

「ちょっと、先輩!」

自分の肩を抱いたまま歩く不二にリョーマが抗議の声を上げた。

「手、離してくださいよっ。」

「あ・・・ごめん。」

リョーマの怒ったような声に不二は素直に謝ってリョーマの肩にかけた手を外す。

「もう・・・いきなり何なんすか?」

リョーマが不二をじろりと睨み上げる。

「・・・さっきドキドキさせられた仕返し。」

そんな彼に不二はくすりと笑って答える。

「少しはドキドキした?」

「あのねー!」

「あはは」

他愛なくじゃれ合うふたりにゆっくりと別れる交差点が近づく・・・






その日の夜、携帯のメモリから不二はひとつの名前を選び出した。

しばらく迷った後、彼はメールを打ち始める。

しかし、打ち終わったそのメールを送信しようとした指がふっと止まる。

“このままメールを破棄しますか?”

少し迷った後、その質問に“Yes”の選択をすると、不二は違うメモリを呼び出した。

こちらも少し迷った後、コールボタンを押す。

耳の奥で聞こえる発信音に、少し混じる心臓の、音。その音を紛らわすかのように深呼吸をする。

 

「あ、もしもし。夜遅くゴメン。僕、不二だけど・・・」

 

5コール目、軽い接続音と共に聞こえてきた相手の声に不二は静かに話し出した・・・